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たくさんの道草と、ものづくりの合間の独り言。
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昨日はミネソタに雪が降ったそうだ。遠くの友人が驚きと共に知らせてくれた。東京でも先月は何度か氷が降ったし、地球の天気は確実に、相当変化しているんだろう。

今日はちひろ美術館の、ポーランド絵本画家たちの展示会に行った。ヨーロッパのアニメーションや絵本などの芸術は何度も変わる体制の中でも守り続けられて来ていて、毎度そういう中を生きてきた作家/大人たちの歴史に興味を惹かれるのだけど、今回の展示会では、大人たちの意識は児童文学を作っているというよりも「自分の仕事として描いているのだ」という部分にあると強く感じてたじろいだ。そのプロ意識の高さを今まで横に置いて見て来た気がする。
その後は新宿ozone恒例のクラフトマーケットを見て、そこに出展していた友と息子”もうすぐ2歳”と落ち合ってお宅でお茶をご馳走になった。色んな話の中で、ミネソタの友人が沖縄の歌を気に入ってくれて嬉しかったこと、彼が見つけたその歌の英訳に気になる部分があるんだ、あの沖縄方言がadulthoodじゃ物足りない、と言うと、友は”私ならwiseを使うなー”と教えてくれて、なるほどそれを付け加えてみよう、と思った。たったこれだけのことなのに、帰宅してみたら、私の心は沖縄で一杯になっていた。こんな事はとても、とても珍しい。

BEGINの歌が聴きたくなって、YouTubeで探したけれど見付からなかった。代わりに見付けた「ハイサイcalifornia」という曲。1972年の返還まで沖縄はcaliforniaだった(正確にはcalifornia州法が施行されていたと言うべきなのかも)ことを振り返り、あの頃はアメリカに頼って生きていた沖縄だけど、今は同じ目線で物が言える、「ハイサイcalifornia(こんにちは、california)」って言えるんだ、とBEGINは解説している。だから今、この歌の中でのcaliforniaとは、過去の沖縄であり、アメリカであり、米軍そのものを指している。

色んな人たちが色んな立場で自分の故郷を思い、足元を見つめている。
足元の大地には過去があって、身体は現在に、身体から発せられる声は未来に伸びる。彼らの歌声はいつか生きるであろう未来への賛歌だ。
誰の声も、いつもそうあって欲しい、と強く思う。



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普天間米軍基地の移設問題がぐちゃっとしている。
4/25の県民集会、そこでの9万人の意思表示、身に着けた黄色い布、地元の人々の演説、普天間基地のある宜野湾市の高校、その学生による訴え…私が通っていた高校の学生だ。後輩がこうやって演説する姿を東京で、全国ネットのニュースで見るのは2回目だ。1回目は、米兵の幼女暴行事件。2回目が、今回。あ、市内の大学構内にヘリが墜落した事故もあったから、今回は3回目なのか。

沖縄の義務教育課程には、私の頃は郷土史があって、沖縄戦を含めて毎年学ぶのが普通だった。特に宜野湾市は「未来の宜野湾市」と題して普天間基地の跡地利用について考えるのが課題のひとつで、作文を書いたり、グループに分かれて絵を描いたり模型を作ったりした。
毎年だと正直ネタは尽きる。普天間基地の隣で生まれ育った私にとっては普天間基地のある景色が”故郷の風景”でもあるから、無い状態がどういうメリットをもらすのか、根本的には分かっていなかったと思う。だからもし、その課題で良い成績を取っていたとしたら、それは”教育”を”私という鏡”が写し取っていただけだったかも知れない。とにかく教育は考える種となり、思春期を迎えて高校を卒業する頃には、地元の友人達と”普天間基地がどこかに移ることでそこを不幸にするなら今のままで良い”という共通の思いを抱くようになった。

”ぜんぶフィデルのせい”という映画がある。カトリックの小学校に通う上流家庭の少女が、両親が共産主義に傾くことにより今までの生活が崩れ、新しい価値観に出会い、それを受け入れてゆく過程を描いた”小さな胸の葛藤物語”だ。
小さな胸はそれはそれは激しく揺れ動く。こんな馬鹿なことって無い!と怒りもする。今まで白だったことが黒かも知れないと考えるのは、大人も、子どもも、苦しいものだ。だから大人は少女と真剣に向き合う。できる限り説明もする。段々と、子どもは説明してくれる大人を信頼してみようと思うようになる。
そうやって過ごす内に、少女はある日、学校で習う聖書に矛盾を感じて教師であるシスターに質問する。シスターは答える代わりに少女を廊下に立たせた。答えを得る代わりに罰を受けたことが、少女の価値観の塗り替えを決定的にした。その姿は、私がカトリック教会に通っていた頃の日曜学校での体験に似ていた。質問する前の受身の少女、盲目的に信じる姿もまた、義務教育を受けていた頃の私そっくりだった。

”選べる自由”の自由度ははかり知れない。
少女は子どもだから、今は親の導きで生きなくてはならない。だけど大人になった時に、ふと立ち止まるはずだ。いくつかを比べた時、片方だけが全て悪いという場合は少なくて、どちらにも良い面があることにも気が付くと思う。その時に彼女は、どの価値観で、または自分で新たな価値観を得て生きるかを選ぶだろう。そうやって考える材料があることは、とても大きな財産だと思う。人生において。

私の母は、宮城県仙台市に生まれ育って、1961年に東北大学を卒業した沖縄人の父と結婚、まだ日本ではなかった沖縄にパスポートを持って嫁いだ。だから私の身体には、確実に二つの価値観が同居している。映画の少女のように葛藤しながら生きて、それが財産になり得ると信じ切れる様になるまで長い時間を要したけれど、いつだって私を私たらしめて立たせてくれるのは、この二つの価値観だ。


沖縄は、日本か。日本は沖縄を擁しているのか。
その政治的な問題が土地や人を隔てても、人間の血の価値観はいつだって正しく生き残る。
普天間基地がどう転んだとしても、やっぱりこれしかない。

私の記憶にある中で、実家の周りに住んでいた一番の老齢は抜け道の小屋に住む”刺青のおばあちゃん”だったが、実際にはもうひとり、もっと年上のおばあちゃんがいた。物心ついた頃にはおばあちゃんも家も既になく、私は憶えていないけれど、とても優しいひとだったそうで、家は子ども部屋のすぐそば、緑で区切るまでもなくまるで別宅のような状態で建っていたらしい。今もその家の基礎だった石が点々と残っている。

不思議に思われる方もいるかもしれない。
赤の他人が、実家の敷地に家を建てて住んでいる。しかも、ひとりではなく…。



これには、第二次世界大戦、沖縄戦が深く関係している。

実家の血筋は元々地主だった。子ができなかった曽祖父の元に親戚筋から祖父が跡取りとして養子に入って、祖母と結婚。父がまだ小さい頃にフィリピンへ出稼ぎに出て数年後に戦争が勃発、帰らぬ人となり、以後 祖母が守り続けている。

実家は、現在 返還問題で注目を浴びている普天間基地と道路を挟んで隣り合っている。滑走路の延長線上にあるため飛び立つ飛行機は全て実家の上を通って行くので、これまで様々な機種や時世を見てきた。
普天間基地は宜野湾市の中央を占めていて、民間地域はその周りにドーナツのように広がっている。宜野湾市の西側は海に面しているのだが、普天間基地が平坦なため、実家からも基地の向こうにうっすらと海を見ることができる。
どうやって、なぜこの場所に普天間基地ができたのか、その成り立ちを知っている人は少ない。これから書くことは、たぶんネットを調べても出てこないのではないかと思う。以下父からの伝聞である。

戦時中、宜野湾市は激戦地だった。実家から3キロほどしか離れていない西側は特に酷く、今でも有名な”ふざけてはいけないパワースポット”が存在する。(森川公園、と検索するとすぐに出てくるので興味がある方はご確認を…)そんな地域にあって、実家のある野嵩はなぜか戦火を免れて、井戸があった祖母(祖父?)の家にはたくさんの人たちが住んでいたそうだ。皆、焼け出されたり壕に逃げて来て戻れなくなった人たちだった。
戦争も終盤の1945年6月のある日、アメリカ軍の上陸が始まって、宜野湾市の西の海と海岸線が船と戦車に埋め尽くされて真っ黒になった。戦車は、まっすぐに野嵩に上がって来て、穴を掘って戦車を埋めた。そして全ての砲台を南に向けてほどなくして戦争は終わったのだ。父はその様子を、今 実家が建っている場所からつぶさに見ていた。
(ちなみに沖縄県民にとって終戦は6月23日である。この事実を前にしても8月の悲劇を迎えてしまったことを思うと、やり切れない。)

その頃、現在普天間基地がある場所は広大な空き地同然で、終戦後は朝鮮戦争関連の戦闘機やクルマの廃車が並び”スクラップ・ヤード”と呼ばれていて、子ども達のかっこうの遊び場だった。その頃から既に滑走路はあったらしいが、それが朝鮮戦争後、しっかりと整地されて現在の普天間基地が出来上がった。だから普天間基地は1945年から存在する、という位置づけで良いんじゃないかと思う。

”あと1週間終戦が遅れたら、野嵩も危なかった、多分、生きていなかったろう”という父の言葉は、今こうやって生きている私がどれだけの隙間をかいくぐった結果なのかと、奇跡にも近いと思うに足る。
その言葉が示すとおり、戦後の混乱は大変なもので、祖父のない中、祖母は女手ひとつで父達の育児と土地の確保に奔走した。地主であった事は誰もが知っていても、それを示す登記書がないために法的には声を上げられなかったらしい。戸籍も焼けて改名する人達が続出していたのだから当然といえば当然、野放し状態だったのだろう。
そう言うわけだから、いま実家が建っている土地はいびつな形をしている。話し合いがつかなかったお隣が食い込み、あっちが出っ張り、こっちも張り出して、そして、混乱の中でそこに住んでいた人たちを丸ごと抱え込むような形で、決着したのだ。

刺青のおばあちゃんの隣の家屋だけは、実家のものだった。だからそこに住むおばさんは毎月賃料を持ってやってきたが、他の人たちは半年か1年、時には2年に一度、やって来るだけだった。
ほとんどが家族、もしくは夫婦で住んでいたけれど、刺青のおばあちゃんはずっと一人だった気がする。
刺青があったんだから結婚していたはずけど、戦争で亡くしたのかもしれない。

今はもう、あのおばあちゃんを覚えている人はいない。
子ども部屋の隣のおばあちゃんは皆 よく覚えているのに、なんだか不思議というか、腑に落ちないというか。
やっぱり魔女だったのかなあ…。

そんなわけないか。


友人の近所に住むおばあちゃんが、夜中の入浴中に亡くなったそうだ。
そのおばあちゃんとの思い出に、子どもの頃 昼食中の台所を覗き込んで見付かった時の気まずさがあると知って笑ってしまった。
私にも似たような思い出がある。

実家は、私が生まれる前からささやかながら賃貸業を営んでいる。副収入とも呼べないような額で実家の土地を緑で区切ってはお年寄りに貸し、そこにみな好き好きに家を建てて住んでいた。
その中のひとつは、実家の裏手からその先の路地に通じる細い細い抜け道のそばにあって、質素な小屋におばあちゃんが一人で住んでいた。そばと言っても細い道のこと、そこを通るには小屋の目の前、”玄関口”を横切らなくてはならなくて、いつもおばあちゃんに気づかれないようにそっと、足早に通り過ぎた。なぜなら、その小屋は古く、暗く、いつも雨戸は閉め切られ、加えて中に居るはずなのに気配はなくて、そんな所にお年寄りがひとりで住んでいることを想像すると怖かったからだ。
でもある日、”玄関口”の閉め切られた雨戸に隙間があることに気が付いて足が止まった。いけないこととは思いつつ、そーっと中を覗いてみると…おばあちゃんが、こっちを見て微笑んでいた。
見付かった気恥ずかしさと、お年寄りとの触れ合いのない生活環境だったからしわくちゃなおばあちゃんへの恐怖心で、全速力で逃げ帰った。
その日から、おばあちゃんは私や友人達が通るのを待つようになった。それまでもきっと、私達が通るのを見ていたんだ。

「あい、食べないねー(ほら、食べないかい?)」
と呼び止めては私達にマシュマロやチョコレートをくれた。
薄暗い部屋から伸びるしわくちゃで刺青(*1)のあるその手からお菓子を受け取るのは、まるで魔女の誘いに乗るような後ろめたさと、異次元との交流みたいな非現実感があった。
おばあちゃんは、真っ白くて長い髪を頭のてっぺんのやや後ろでお団子にしてジーファー(*2)でまとめた、瞳の大きな小柄な人で、しわくちゃだけどよくみると可愛いお顔をしていた。
私はだんだん図々しくなって、自分からお菓子をねだったりもした。でもお菓子がないとすぐに帰った。何を話していいか分からなかった。


おばあちゃんが亡くなったのがいつだったか、全く覚えていない。
小屋は数年放置されたままで、でもとうとう取り壊すことになって、その前に父と整理しようとそれまで知らなかった出入り口から中に入ってみて驚いた。間取りは土間と6畳一間のみで、火鉢がひとつと鍋やヤカンがあるだけだった。魔女みたいに思っていたのに、お宝は何にもなかった。

小屋が壊された跡地は、隣に住んでいたおばさんが畑にして賃料と一緒に野菜を持って来てくれた。そのおばさんも、抜け道を挟んで反対側のおばあちゃんもそのお隣もいなくなって、今ではコンクリートの駐車場になっている。そうなって初めて、実家のシンボルであるガジュマルの大木の裏側に住んでいた人たちの目線を見た。この緑の隙間から、子どもだった私達をお年よりは見ていたんだなあ、と思った。




*1刺青/既婚女性が手の甲に入れた。ハヂチと呼ばれる。
*2ジーファー/銀製のかんざし。片方にスプーンのような窪みがある。





母方の伯母と会った。2年振りである。
初夏を思わせる陽気にジャケットを脱いで待っていたら、彼女はいつもの如く着物姿で現れた。
今日はこの季節に合わせ、紅花で染めた薄いピンクのストライプの着物に抹茶色がベースの帯、ライトグリーンの帯締め、パールと渋めのピンク二色使いが可愛い鼻緒のエナメルの草履だった。帯は人間国宝のなんとかさん作らしくて、そんなことを除いてもとても綺麗な色の組み合わせだった。

伯母に会うと、決まってフランス料理をいただくことになっている。
どこに行っても良い席が予約されていて、ワイン以外はメニューを見ることなく店の方と相談しながら料理を決め(時には特別メニューが組まれていることもある)、調理の前後には食材がテーブルまで運ばれて説明があり、必ずシェフが挨拶に来る。時には、メニュー決めからシェフが対応してくれたりする。緊張するが、時々はこういう、私の日常には無い気分を味わうのはとても気持ちが良い。流れを知るだけでも、私にとっては貴重な体験だ。

そんな感じで今回もいつものように食事が始まったかに思えたけれど、私は、以前よりもなんだかリラックスしていた。


母の25回忌を教えてくれたのは、実は伯母だった。
”しょうこちゃん、あちらにはこちらと違って25回忌っていうのがあるのねえ、あなた知ってた?”
毎年命日に合わせて実家に連絡をくれる伯母が父から聞いたと言って電話をくれて、今年は今月会いましょう、ということになったのだ。

伯母は20年前に下の息子を亡くしている。だから私達は、最愛の家族を失うと言う共通点を抱きながら再会して来た。母と年子の伯母にしてみれば、私に対する女親の代弁、というような気持ちもあってのことだったと思う。

しかし今回は、”大人同士”だった。
私は初めて彼女の恋の話しを聞き、その周囲の人間関係やそれに絡めた彼女の結婚観、伯父との関係を面白おかしく聞いた。それぞれの心の痛みや迷いを感じて、色々質問もした。そうやって最後に選んだ柑橘系のデザートを平らげる頃には、私達は女同士の会話を楽しみながらさっぱりとした良い気分になっていた。

4時間のランチのあと、街を散策しながらお気に入りの珈琲の店に行った。そこでもゆっくりして、地下鉄に乗るはずが遠回りをしてJRに乗り、新宿で先に降りて別れるつもりだったのだけどまだ話し足りないわと、二人で降りてホームでお喋りを続けた。伯母は私に話したいことがあると言ったが、それはいつものような諭す言葉ではなくて気遣いの言葉だけだった。
私は初めて、伯母を抱きしめた。着物の人を抱きしめるとこんな感じがするんだなあ、と思った。私はやっと、伯母を理解し始めたんだと思う。



続きを書こうと思えばまだまだある。
どこまでも言葉を続けられる。
でもそれはまたいつか、似つかわしい時が来るまで取っておきたい。
代わりに伯母が引用した言葉を。
70年生きた時、私はどんな言葉を若造に教えることができるだろう…と考えつつ。


長く長く ひとつ火種を秘めきたり 消さず絶えさず却火となさず



Profile
HN:
TOBARU SHOKO
性別:
女性
職業:
Creator
自己紹介:


フリーランスのジュエリー作家から調理の世界に寄り道後、アートのクリーエーションに魅了されて現在に至る。
育児支援施設にて親と子を対象とした造詣教室「親子でアート♪」を手掛ける他、下手の横好きで書きモノも少し。
アクセサリー制作は作家の補助、
初心者対象の教室、趣味での制作、など。
ちなみに画像は家宝のPIRELLI Calendar 96 by Peter Lindberghより。
okinawa出身。

                 
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