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たくさんの道草と、ものづくりの合間の独り言。
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昨夜、神奈川芸術劇場KAATのこけら落とし作品、舞台「金閣寺」を観て来た。三島由紀夫の「金閣寺」だ。

読んだことがないので事前に頭に入れておこうと思ったけれど、予備知識が無い方がもしかしたらすんなり入り込めるかも…、と聞いて、その通り何にも知らずに出掛けた。

一言。とっても凄かった。
誰にでも自分に通ずる何かが見つかるのが映画や舞台だけれど、その先にある”生への渇望、憧れ”を通り抜けて”希望”があり、行き着くところが”許し”であるところが亜門さんの作品に通ずるところだと私は常々勝手に思っていて、今回は経典、教典という宗教の言葉も借りてそんな亜門哲学(失礼!)がもっと裾野広く、様々な層に浸透して行くような、そんな感じを受けた。
 
舞台が日本の田舎であり、都の京都であり、仏教であり、そこに登場する仏に帰依しても俗物な住職の存在があって、それら日本人ならお馴染みの「場所」と「人間」を下敷きに人間の陰な本質が暴かれるのは、日本人なら主人公の溝口のみに焦点を当てられるし、外国人なら全てに薄ら寒さを感じられるんじゃないかと思った。
そもそも宗教は隠微だし。
そこは万国共通の、暗黙の了解だ。
海外公演できると良いのに。
 
溝口に共感するのは危険だけど、観た人は必ずどこか理解できてしまう。
そんな科学的には割り切れない部分と言うか、溝口みたいな「行為」には及ばずとも溝口みたいな「狂人」が自分と重なる本当の恐怖の姿を目の当たりにしてもなお、”それで良いし生きてて良い”、なんて、何という許しか!それとも、許しなんて最初から存在しなくて、私の防衛本能が作り出した自分本位な甘えた感情?



溝口は許されたか。開放されんだろうか。
金閣を燃してしまった後の彼には許しも希望も渇望も憧れもなく、無になってしまったんじゃないか。こちら側の私(たち)が、あの結末に満たされてもなんだか物悲しいのは、きっとこの気持ちが彼の犠牲の上に成り立っているからなんだ。
 
だから、思う。
溝口は誰か。溝口は何者か。何だったのか。
柏木は、思考するから人間は動物とは違う、って言ったけど、そうかな。
私は、溝口はありとあらゆる、生きとし生けるもの全ての想念だと思う。
だから無でも有でもなく、善でも悪でもない。またはその逆なんだと思う。
そして言うまでもなく、社会の体現者でもある。
マイノリティであるがゆえに押し付けられ、またそれだからこそ垣間見ることのできた社会の構造。
そこには、狂ってしまっても仕方ないくらいの密度で”虚”が詰まっていたんだろう。




金閣寺、読まなくちゃ。

舞台って、本当に凄まじい、強烈な総合芸術だ!!!!

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HN:
TOBARU SHOKO
性別:
女性
職業:
Creator
自己紹介:


フリーランスのジュエリー作家から調理の世界に寄り道後、アートのクリーエーションに魅了されて現在に至る。
育児支援施設にて親と子を対象とした造詣教室「親子でアート♪」を手掛ける他、下手の横好きで書きモノも少し。
アクセサリー制作は作家の補助、
初心者対象の教室、趣味での制作、など。
ちなみに画像は家宝のPIRELLI Calendar 96 by Peter Lindberghより。
okinawa出身。

                 
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