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人種差別やどこにでもある子どものいじめ、失って初めて分かる痛みや許しを含んだ教訓の他にも、歴史的背景という深いテーマが隠されているこの物語に、石井さんはこう寄せています。
児童文学は、読む子ども達を成長に合わせて楽しませ、たくさんのことに気付かせてくれます。その子どもたちと一緒に楽しみながら、私達も今一度児童文学に触れてみるのも良いかもしれません。
不思議に思われる方もいるかもしれない。
赤の他人が、実家の敷地に家を建てて住んでいる。しかも、ひとりではなく…。
これには、第二次世界大戦、沖縄戦が深く関係している。
実家の血筋は元々地主だった。子ができなかった曽祖父の元に親戚筋から祖父が跡取りとして養子に入って、祖母と結婚。父がまだ小さい頃にフィリピンへ出稼ぎに出て数年後に戦争が勃発、帰らぬ人となり、以後 祖母が守り続けている。
実家は、現在 返還問題で注目を浴びている普天間基地と道路を挟んで隣り合っている。滑走路の延長線上にあるため飛び立つ飛行機は全て実家の上を通って行くので、これまで様々な機種や時世を見てきた。
普天間基地は宜野湾市の中央を占めていて、民間地域はその周りにドーナツのように広がっている。宜野湾市の西側は海に面しているのだが、普天間基地が平坦なため、実家からも基地の向こうにうっすらと海を見ることができる。
どうやって、なぜこの場所に普天間基地ができたのか、その成り立ちを知っている人は少ない。これから書くことは、たぶんネットを調べても出てこないのではないかと思う。以下父からの伝聞である。
戦時中、宜野湾市は激戦地だった。実家から3キロほどしか離れていない西側は特に酷く、今でも有名な”ふざけてはいけないパワースポット”が存在する。(森川公園、と検索するとすぐに出てくるので興味がある方はご確認を…)そんな地域にあって、実家のある野嵩はなぜか戦火を免れて、井戸があった祖母(祖父?)の家にはたくさんの人たちが住んでいたそうだ。皆、焼け出されたり壕に逃げて来て戻れなくなった人たちだった。
戦争も終盤の1945年6月のある日、アメリカ軍の上陸が始まって、宜野湾市の西の海と海岸線が船と戦車に埋め尽くされて真っ黒になった。戦車は、まっすぐに野嵩に上がって来て、穴を掘って戦車を埋めた。そして全ての砲台を南に向けてほどなくして戦争は終わったのだ。父はその様子を、今 実家が建っている場所からつぶさに見ていた。
(ちなみに沖縄県民にとって終戦は6月23日である。この事実を前にしても8月の悲劇を迎えてしまったことを思うと、やり切れない。)
その頃、現在普天間基地がある場所は広大な空き地同然で、終戦後は朝鮮戦争関連の戦闘機やクルマの廃車が並び”スクラップ・ヤード”と呼ばれていて、子ども達のかっこうの遊び場だった。その頃から既に滑走路はあったらしいが、それが朝鮮戦争後、しっかりと整地されて現在の普天間基地が出来上がった。だから普天間基地は1945年から存在する、という位置づけで良いんじゃないかと思う。
”あと1週間終戦が遅れたら、野嵩も危なかった、多分、生きていなかったろう”という父の言葉は、今こうやって生きている私がどれだけの隙間をかいくぐった結果なのかと、奇跡にも近いと思うに足る。
その言葉が示すとおり、戦後の混乱は大変なもので、祖父のない中、祖母は女手ひとつで父達の育児と土地の確保に奔走した。地主であった事は誰もが知っていても、それを示す登記書がないために法的には声を上げられなかったらしい。戸籍も焼けて改名する人達が続出していたのだから当然といえば当然、野放し状態だったのだろう。
そう言うわけだから、いま実家が建っている土地はいびつな形をしている。話し合いがつかなかったお隣が食い込み、あっちが出っ張り、こっちも張り出して、そして、混乱の中でそこに住んでいた人たちを丸ごと抱え込むような形で、決着したのだ。
刺青のおばあちゃんの隣の家屋だけは、実家のものだった。だからそこに住むおばさんは毎月賃料を持ってやってきたが、他の人たちは半年か1年、時には2年に一度、やって来るだけだった。
ほとんどが家族、もしくは夫婦で住んでいたけれど、刺青のおばあちゃんはずっと一人だった気がする。
刺青があったんだから結婚していたはずけど、戦争で亡くしたのかもしれない。
今はもう、あのおばあちゃんを覚えている人はいない。
子ども部屋の隣のおばあちゃんは皆 よく覚えているのに、なんだか不思議というか、腑に落ちないというか。
やっぱり魔女だったのかなあ…。
そんなわけないか。
そのおばあちゃんとの思い出に、子どもの頃 昼食中の台所を覗き込んで見付かった時の気まずさがあると知って笑ってしまった。
私にも似たような思い出がある。
実家は、私が生まれる前からささやかながら賃貸業を営んでいる。副収入とも呼べないような額で実家の土地を緑で区切ってはお年寄りに貸し、そこにみな好き好きに家を建てて住んでいた。
その中のひとつは、実家の裏手からその先の路地に通じる細い細い抜け道のそばにあって、質素な小屋におばあちゃんが一人で住んでいた。そばと言っても細い道のこと、そこを通るには小屋の目の前、”玄関口”を横切らなくてはならなくて、いつもおばあちゃんに気づかれないようにそっと、足早に通り過ぎた。なぜなら、その小屋は古く、暗く、いつも雨戸は閉め切られ、加えて中に居るはずなのに気配はなくて、そんな所にお年寄りがひとりで住んでいることを想像すると怖かったからだ。
でもある日、”玄関口”の閉め切られた雨戸に隙間があることに気が付いて足が止まった。いけないこととは思いつつ、そーっと中を覗いてみると…おばあちゃんが、こっちを見て微笑んでいた。
見付かった気恥ずかしさと、お年寄りとの触れ合いのない生活環境だったからしわくちゃなおばあちゃんへの恐怖心で、全速力で逃げ帰った。
その日から、おばあちゃんは私や友人達が通るのを待つようになった。それまでもきっと、私達が通るのを見ていたんだ。
「あい、食べないねー(ほら、食べないかい?)」
と呼び止めては私達にマシュマロやチョコレートをくれた。
薄暗い部屋から伸びるしわくちゃで刺青(*1)のあるその手からお菓子を受け取るのは、まるで魔女の誘いに乗るような後ろめたさと、異次元との交流みたいな非現実感があった。
おばあちゃんは、真っ白くて長い髪を頭のてっぺんのやや後ろでお団子にしてジーファー(*2)でまとめた、瞳の大きな小柄な人で、しわくちゃだけどよくみると可愛いお顔をしていた。
私はだんだん図々しくなって、自分からお菓子をねだったりもした。でもお菓子がないとすぐに帰った。何を話していいか分からなかった。
おばあちゃんが亡くなったのがいつだったか、全く覚えていない。
小屋は数年放置されたままで、でもとうとう取り壊すことになって、その前に父と整理しようとそれまで知らなかった出入り口から中に入ってみて驚いた。間取りは土間と6畳一間のみで、火鉢がひとつと鍋やヤカンがあるだけだった。魔女みたいに思っていたのに、お宝は何にもなかった。
小屋が壊された跡地は、隣に住んでいたおばさんが畑にして賃料と一緒に野菜を持って来てくれた。そのおばさんも、抜け道を挟んで反対側のおばあちゃんもそのお隣もいなくなって、今ではコンクリートの駐車場になっている。そうなって初めて、実家のシンボルであるガジュマルの大木の裏側に住んでいた人たちの目線を見た。この緑の隙間から、子どもだった私達をお年よりは見ていたんだなあ、と思った。
*1刺青/既婚女性が手の甲に入れた。ハヂチと呼ばれる。
*2ジーファー/銀製のかんざし。片方にスプーンのような窪みがある。
雹の降る寒い一日だった。正確には凍雨と言うらしい。
夜、友人夫妻に誘われて地元の焼き鳥屋に行った。古い路地にあって、以前はスナックやお茶漬け屋が並ぶ暗い通りだったのが、ここ数年 小ぢんまりとしたお洒落な飲食店やギャラリーなどで賑わっている。
友人のご主人は美容師で、知り合って以来 髪を整えてもらっている。2週間前にも10センチほど切って顎のラインのショートボブにしてもらった。何の目的も無く伸びただけだったので惜しくなかったし、痛んだ部分が取れてすっきりさっぱり、元気になった。
一昨日会った珍友も元気になったと認めつつこう言った。
「2008年のしょうこの髪は、正直酷くて見てられなかったよ。今だから言うけど。」
2008年の春、私は突然の大失恋をした。
相手は大使館に研修に来ていたフランス人で、出会いはその一年前、バイトしていた銀座のバー(と書くとかなり硬いけど実体はとっても気さくな飲み屋)の常連さんが開いた下町のお花見だった。研修後に望む職種が見つけられずに帰国が決まった時、彼のご家族から従姉妹の結婚式への招待を受け、その夏の1ヶ月をパリのご実家で過ごすことになった。
何から何まで初めて尽くしで、加えて毎週イベントがあった。第1週目はお母さんの誕生日、翌週は従姉妹の結婚式、次にお姉さんの出産と親友の誕生日、そして最後はお姉さんのご主人の誕生日と、今思えばあらゆるご親戚にお会いしている。彼の叔母さんが福祉ボランティアとして時々預かっていた7歳の女の子に自己紹介したときには、私の名前が聞き取れずに ”あなたの名前はchocolatなの?” と恥ずかしそうにしていたのには胸がキュンとした。あれも立派なカルチャーショックだったと思う。
そのバカンスの後は、日本で一緒に暮らすために彼はパリで大学の卒業と日本の就職口獲得を目指し、私は文字通り休み無く働き、skypeで毎日朝夕2度の会話と手紙のやりとりをして、クリスマスやお正月、バレンタインには会いたいとお互いに全身全霊で願いながらも将来の暮らしに備えようとぐっと堪えては励まし合い、ご両親から時々届く詰め合わせは私に勇気をくれた。子どもみたいだけど仕方なかったし、間違ってないと思っていた。
しかし彼の就職口は見付からなくて、あちらで家族会議が開かれた結果 私がパリに行くことになった。私は調理か彫金か何かしらできそうな気がしたし、パリには県人会とそこに繋がるつてもあったのでさして心配はしていなかった。実際、どうにかなったと思う。
2008年のまさに今の時期に、何個目かの詰め合わせが届いた。中にはラブレターはもちろん大好きなお菓子、お父さんからの香水も入っていた。でもその同じ日の夜に、私は突然振られてしまった。
珍友が言ったのは、その後の髪のことだ。
人間とは、女性とは、私とは恐ろしいもので、気持ちが即座に髪に反映してしまう。
1ヶ月のパリ生活、その硬水のせいだと周りに説明することで私もそう思い込もうとしたけれど無理があった。その頃は胸近くまでの長さがあり、それを思い切って自称”パリの水で傷んだ部分”をばっさりしたつもりだったのに全く落ち着く気配は無く、美容室の床に落ちた自分の髪はまさに ”ゴミくず” で、乾いた心そのものに見えて泣きそうだったことを覚えている。
お風呂では毎日キャップを被ってまでトリートメントをし、乾かした後もトリートメント、効くと聞いて椿油やワックスなど色んなことをしたのに無駄だった。珍友も、せっせと高級なセットをプレゼントしてくれた(そっか、そういうことだったのか!今、合点!ありがとう!)
2008年は、身も心もずーっとそんな感じだったと思う。
2009年春にもショートボブにしてけっこう元気になった感じがしたけれど、美容室の床に散った髪の毛はまだゴミに見えていた。
そして2010年。2週間前。床の髪は、髪に見えた。ゴミには違いないけれど、少なくとも”くず”じゃなかった。まだ潤っている感じがした。
私の心は知らぬ間に落ち着いて、自然の摂理通りに正しく美しく新陳代謝を果たしたのだ!!
どうだ!?
フランス人の彼だが、振った後も”必ず会いに行く”と月一で連絡をよこし続け、私は気にしていない振りをしながらもそれにどっぷりとすがりながら2008年を過ごし、2009年頭、ひょんなことからあちらにはもう恋人がいると判明、昨夏には、大のSNS嫌いだった彼が私が撮影した写真をfacebookに使っているのを見付けて大爆発し、以来もうすっかり冷めた。
最後の最後まで私を振った理由を説明できず、結局彼が彼自身を整理できないと言うことだけがはっきりした。いつか許してくれたら再会したいそうだけど、許すも許さないも、縁があればどこかでばったり会うんだろう。再び親友になりたい、と彼は願っていたが、仮に会えたとしてもそれも分からない。全てはタイミングだから。
ただ、彼がくれた経験やご家族には今でも心の底から感謝している。言葉が通じなくてもショッピングに出掛け、歌を歌い、喧嘩も見て、温かい家族の絆を教えてもらった。
どうしてこんなことを書いているかというと、書けるようになったから。しかもこの時期に。
理由はひとつ、それだけ。
今年は意識して髪を伸ばしてみようか。
そしていつの日か「賢者の贈りもの」のような美しいカップルになってみせるんだ!
…金は持っていたいけどね。
一文字も進まない。
何時間もパソコンの前に座っているのに、テレビをつけたり消したり、cdを聴いたり聴かなかったり。先週、barで下ネタ大魔王と喋っててつい買っちゃったタバコを無理やり吸ったり。お茶は、紅茶から緑茶、珈琲と手当たり次第に淹れてみた。…まだ玉露があるぞ?やだ。今はめんどくさい。
お風呂も入った。
ご飯も食べた。
天の助け!?か1年振りに上海の友達からメールが来て、子育て中で時間が無い彼女が読み易いように、と2部構成の返事を書いてみたけど、それももう送っちゃったし。
レポートが書けないの。時間潰ししてるの。なんでだろう、難しいの。
ふと頭に浮かんだ言葉は、「弱虫毛虫、怠け虫。体の中は、みどりいろ。」。
我ながらなんじゃそりゃ。
でもね、毛虫って、本当に体の中が緑色なんだよね。
そうだ、今年 縁あってミャンマーはシャン民族のパーティーに友人と参加させていただいた時、とても美味しくて珍しい絶品料理の数々の中に Roasted chaterpillars があって、その生々しい外見とは裏腹にものすごく味わい深くて驚いたって出来事があった。その後友人と調理法について考えてて、
”きっと、絶食させて身体の中を綺麗にしてから炒ったんだろう、だからえぐみが無かったに違いない”
とコメントしたら、
”…えぐいね。”って返された。
あの時はそうかなーと思ったけど、そうね、いもむしは緑を食べているんだから絶食させなくても良いのかも。ある時期の鮎みたいにそのままで美味しく行けるのかもなあ。
ますますえぐいですか、もしかして。
そう、昨日は東京オペラシティのギャラリーにセシル・バルモンドを観に行った。
18時以降は半額になるのでもちろんその時間を狙って、昼間は初台にいたという珍友に渋谷から戻ってもらって一緒に見てあーだこーだ好き勝手に話してたんだけど、後半になってやっと凄さが分かり、珍友と一緒に「今まで浅はかでごめんなさい」って謝った。
仕組みが分かると面白くなったし、何かのヒントをもらえた気がした訳だけど、そう言うことは色んな方面でそうで、つとアートと呼ばれるものについては表層から内面を、内側から外見を理解するのは難しいなあ。
いや何かあるはずだと思い返してみても、展示会場にあった言葉の数々が回顧的に感じた印象は今も変わらないし、プロジェクターの画像については池田亮司のかっこ良さを思い出したりと、やっぱり良く分からないかも。ごめんなさい。
あの、”構造物”という物体として存在するもののバランスの素晴らしさやかっこよさは、理系の人ならもっともっと深く感じ入るのかなあ。
どうなのよエレメント。「エレメント」って言葉は、大好きだ。語感的にも。
さあーて、そろそろ戻ろうー。
書けるといいなー!
↓ これが、空炒りいもむし。 ↓ 三角柱じゃどうよ、と描きなぐったメモ。
フリーランスのジュエリー作家から調理の世界に寄り道後、アートのクリーエーションに魅了されて現在に至る。
育児支援施設にて親と子を対象とした造詣教室「親子でアート♪」を手掛ける他、下手の横好きで書きモノも少し。
アクセサリー制作は作家の補助、
初心者対象の教室、趣味での制作、など。
ちなみに画像は家宝のPIRELLI Calendar 96 by Peter Lindberghより。
okinawa出身。
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