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今日で沖縄は日本復帰満39年。最近は震災関連よりも米軍問題に紙面を割いている新聞に、数日前から復帰に関する記事が加わっている。この時期、更に久々の長期滞在でいろんな沖縄特有の話題に触れては、こどもの頃を思い出している。
シュプレヒコールを上げて実家前の330号線を米軍基地に沿って歩く人波を見て、末の甥っ子が‘ばかみたい’と笑った。私は驚いて、その場に座らせて諌めた。
甥っ子達は、沖縄戦はおろか広島、長崎の原爆すら知らない。学校で習っていないと言う。本当かどうか疑わしいとずっと思っていたけど、今朝やって来た彼等の友達も知らないし、習ってないと言う。
私がこどもの頃は徹底した郷土の歴史教育や1フィート、3フィート運動があった。お陰で戦争の恐ろしさを十分知る所となったけれど、大人になって、‘悲惨’が枕詞のような沖縄の教え方が疑問視されていることを知り、次世代は冷静に問題点をあぶり出すような、ポジティブな、未来に向けての授業になるんだろうと思っていた。
行進で平和が手に入るほど問題は簡単じゃない。でも、行動に起こす人達を馬鹿にするようなこどもができてしまうんなら、以前の教育の方が何倍もまし。
今 やって来た甥っ子の別の友達にも同じ質問をしてみた。‘2、3年の頃にやったよ’。
…だろうよ!平和授業が無いはずない!
少し安心。願わくば、お馬鹿な甥っ子達みたいな子も拾うような教育を!
新宿は歌舞伎町の入り口にあるフォンベトは、安くて美味しい大好きなお店。ここを知ったのは偶然だったのだけど、以来何度も訪れている。そして幾度となく足を運ぶのにはもうひとつ理由がある。オーナーが、80年代に難民ボートで沖縄に流れ着いた中のひとりなのである。
その頃、小学校に上がるか上がらないかの私は真っ黒に日焼けしてひょろっと痩せていて、連日地元紙のトップを飾るベトナム難民船のニュースから兄弟に”ベトナム難民”とからかわれていた。真夏の日差しの中、木の葉のようなボートにぎゅうぎゅう詰めで流れ着く異国の人々。日に焼けた顔はどれも不安げで、逃げおおせた事実を前にしても幸せそうではなかった。しかし細かい事情の分からない子どもの私は、無邪気に”わー、ベトナム難民って呼ばれたー”と笑って過ごしていたし、どちらかと言うと愉快だった覚えがある。彼らは、平穏な日常に強烈なイメージで迫る非日常のビッグニュースだった。
フォンベトのオーナーはその後日本に定住し、お店を開き、異国の人々を雇い入れ、美味しいベトナム料理で日本人を楽しませてくれている。日本と異国の経済の一端を担っていることを思うと、難民受け入れを停止したも同然の日本の選択にやっぱり疑問を抱かずにはいられない。
そんなことを腹にずっしりと感じながら毎回美味しく食べて、今回も美味しく戴いた。翌日の昨日そして今日と元気で過ごせたこと、仕事のアイディアがわんさか湧いたことと美味しいベトナム料理はきっと関係があるはず。
今夜は、自宅近所のネパール料理店へ初めて行ってみた。ネパール人のオーナーと、ネパール女性を助ける団体でボランティアしている知人のことやネパールでとても素敵な旅をした友人の話で楽しくお喋り(ハンサムなんだなーこの人!でもパートナーいるんだろうなー)。てんこ盛りのサラダやらモモやらの肉料理とネパールビールを呑んで今夜も元気一杯!スパイスってほんと元気の源。気持ちも前向きになる!どうしてこんなにアジアンフードはパワフルなんだろう!?
ベトナムもネパールも、過去に(または今現在も)大変な思いをしている。それでも人々は笑顔で、こんなにも幸せな気持ちを与えてくれる。私(達)は一体なにをお返しできるだろう?同じアジアであっても違う焼けた顔を見ていつも思うことは、そんな感謝と自分への課題だ。
サモサ、サラダ、そしてモモ!パパドってチョイ辛センベイ?もサービスでもらった。
地名であり「強い」という意味もあって軍隊の象徴になっているらしい”ゴルタ”という名のビール。マークは、鉈。二度と呑まない!
今、NHKスペシャル「日米安保50年」を見ている。
4回シリーズの1回目で、前半から私は心打たれた。
「あの頃の日本人は太平洋戦争が日本に何をもたらしたのか良く分かっていた、
反対運動に加わった人のほとんどはそんな中で育った人達だった、
だから、戦争に繋がる全てのものに対して賛成できなかった」
’60年安保闘争に驚いたアメリカが投入した米大使ライシャワーの、今ではもうおじいちゃんである元特別補佐官が言った言葉なのだけど、私の故郷沖縄では、今でも、隣り合う米軍と共に暮らしながら普通の人々がこの気持ちを持っている。
でも。
彼は「あの頃の日本人」と言った。
今の日本は、アメリカから見て「違う」ってことなんだね。
このおじいちゃんと言い、ジョン・ダワー/John W. Dowerと言い、かつて原爆を落としたアメリカの人達の方が日本や日本人のことを良く分かっている場合と時代があって、それが何を表しているかというと、外交という”政治”と人間としての”生活”には開きがあって、その擦り合わせの中で国も人種も超えた人間としての繋がりやレスペクトが生まれる冷静な倫理観が存在するってこと。でもそれは特別な立場の人たちの話で、そう言う部分、一般庶民は歴史として知ることは出来ても、実像を捉えにくくて忘れがちになる。しかも今の私たちは、政治にしっかりと反映される”票”を投じることすら危うい。でもって私は、日本人であり、沖縄人でもある。
それらをひっくるめて、全てを引き継ぐ責任とやらを改めてずっしりと感じたりしてる。
いつだったか、私は父の沖縄を引き継ぐことは到底できない、だから私から、私世代から未来に向けて始める道を選ぶ、と決めたことがあった。
でも結局、「私から始める」ということから「父の歴史を受け継ぐ」という部分を引き剥がすことはできないし、そう違いはないことに気が付いた。
とにかく。
今、こういうことを考えてプレッシャーを抱えている状態には何かしらの意味があるはず。
私が日本人であり、少し変わった環境下の沖縄人として育った意味が。
いつか分かる日が来るんだろう。
気に入った映画は原語で見た後に日本語吹き替えでも見ることが多いのだけど、チェブラーシカはロシア語が断然良かった。何が良いって、チェブちゃんの拙なさ。気持ちが伝わって来るし、とにかく可愛い。
お陰で今、人生初というくらい激しい物欲に駆られている。
…チェブっちのヌイグルミがとんでもなく欲しい。…常に持ち歩いていたい。…できればロシア語を発するのが良い。
9.11の後、アメリカがイラクを攻撃しようとしていた頃、私は東京の反対運動に加わっていた。テレビも新聞も足りない!という焦燥感に駆り立てられて、ありとあらゆる講演会に足を運び、いつしか毎晩のようにミーティングに参加するようになっていた。その時父は、「お前ごとき素人が口を出すんじゃない」と電話口で怒鳴った。それ以前、沖縄に暮らしていた高校時代、祖母は「あんたは学者の言葉と地元に住んでいる人の言葉とどっちを信じるのか」と唇を震わせた。
どちらの時も、私はその時はまっていた“考え”を正解と信じていたし、一生懸命だった。周りの熱に埋没して、外部の声が届かないのを良い事にどんどん没頭して行ったようにも思う。
まだ表現する時ではないような気がするから書けないけれど、今では良く分かっている。いつか書けると良いけれど。
とにかくあの頃を経た今、父の言葉も、祖母の慟哭も素直に受け入れられるようになった。しかしそれとは引き換えになのかどうなのか…あの頃のように声を上げることは出来そうにない。だから、声を出すかどうかも含めて、新たな立場と場所を探しているのが今の状態なのかもしれない。
どんな土地であろうと、どんな歴史を経た現状であろうと、そこには人々の営みがあり、家庭があり様々な愛情と守るべき確固たる姿がある。
赤くて厚いカーテンの向こうにもチェブラーシカがいたように、きっとどんな秘密の場所にもチェブラーシカがいる。
今日は、ともちゃんがアンデパンダンに来てくれた。10年振り!?の再会。お母さんになって、すっとした佇まいで綺麗だなあ~と思ったし、ものづくりをずっと続けている彼女と話せたことがとても嬉しかった。
夜は、久し振りにタイ料理を。
恒例の「大人なのに大人になりたくないオンナ4人組」。
私は言いたい。なんて美しい4人!!
重ねて言う。なあーんにも恥ずかしくない。美しいぃ~4人、である。
それに負けじと薬指に光るダイヤ…私のじゃなくて残念だけど…ほんと、綺麗。
楽しい一夜だった。
帰宅後、メールをチェックしていて、流れで知人のBlogを読んだ。書かれていた内容に、先日ウルトラマンの生みの親である金城哲夫さんの特集番組を見て思ったことを振り返った。
ウルトラマンの素地をご存知の方は多いと思う。私も沖縄人のひとりとして、金城さんをとても敬愛している。そして、本土人と沖縄人の間に生まれて時として「ハーフ」と見られ、今では積極的な意味でそう呼ばれる私にとって、彼の苦悩は手に取るように分かる、と感じている。だから番組を見ている間、かなり苦しかった。
私たちは、それぞれがそれぞれの”利益”を求めて生きている。資本主義である以上間違っていないと思うし、私にはそれ以外の生き方はきっとできそうもないとも思っている。でも、”それ”から大義名分を引き剥がすことは可能で、それを可能にする、人を動かすのは、”世界を知ること”だろうな、と心底思っている。
物理的に言えば…遠い場所に愛する人がいたら。その遠い場所も幸せな場所であって欲しいと願うもの。彼の地の景色を愛し、文化を愛し、人々を愛する。そしてどの土地にも同じ愛があると気が付く。
最近、”SUNSHINE(太陽の雫)”という映画を見た。激動のハンガリーを3代に渡るユダヤ人一家の目線で追った物語だ。
この映画に対してとあるサイトで、”選民思想ってあるし、仕方ないし、ユダヤ人が嫌いって気持ちも分かる”というコメントを見付けた。映画は娯楽だから色んな見方があって然るべきだけど…。
何が言いたいかというと。
もっともっとみんなミクスチャーしちゃって、どんな場所にも愛を見つけられますように。
「グローバルな目線が自分を気付かせる」。
今年開かれた瀬戸内国際シンポジウムでの言葉。
人類学にも、ウルトラマンの金城哲夫さんの心にも通じるこの言葉、私はとても素敵だと思う。
フリーランスのジュエリー作家から調理の世界に寄り道後、アートのクリーエーションに魅了されて現在に至る。
育児支援施設にて親と子を対象とした造詣教室「親子でアート♪」を手掛ける他、下手の横好きで書きモノも少し。
アクセサリー制作は作家の補助、
初心者対象の教室、趣味での制作、など。
ちなみに画像は家宝のPIRELLI Calendar 96 by Peter Lindberghより。
okinawa出身。
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