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たくさんの道草と、ものづくりの合間の独り言。
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物づくりで試行錯誤のいつもの一日を過ごして、片付けが終わったら15日になっていた。テレビは、夏恒例の戦争特番だ。
沖縄に生まれ育つ上で経験した、片親が内地の人間であったが故の様々な出来事を久しぶりに振り返った。終戦から65年、私個人が経験したそれらからも20年余り過ぎて、今はどうなのか。沖縄から見てアメリカと大差なかった日本は今、どうなのか。私は誰で、あなたは誰なのか。

先週、「SUNSHINE」という映画を見た。第二次世界大戦前後のハンガリーをユダヤ人一家の目線で綴った物語で、幾度となく変わる体制に翻弄されて犯罪者であったり英雄であったりする中、民族性よりも国家の一員であることに価値があった時代から、現代の”本当の自分とは誰か”という世界共通の、個人的な、しかしよりクリアな苦悩が浮き彫りにされていた。監督の問題提起もまさにこの部分で、”我々の個人的自由とは重要か、それとも取るに足らないのか”と問い掛けている。個人的自由。民族性を前にした、またはそれすらも超越した一個人としての精神的な自由。

映画の中で、息子達が昇進のために改名することを許した一家の長である父が、ユダヤ人としての誇りや宗教の教えは忘れないでくれと告げるシーンがあった。”しかし世界にはたくさんの宗教がありそれぞれに神がいる、自分の考えを押し付けてはならない”と続き、ユダヤ人の言葉としての効果を狙ったものだとしてもとても胸に響いた。それは人間として当たり前のことではなかったか。戦争を経験してもまだ、そこに立ち返れずにいるのか、人間は。経験したからこそ、立ち返ろうと苦しんでいると言った方が正しいのか。

今この世の中でも、民族的な優位性を信じている人たちがいるし、その考え方が広がりつつある地域があることも知っている。個人的なルーツを探ろうとする動き、知りたいと言う渇望が私個人だけではなく既に世界的な「スタンダード」であることも知っている。それらは相反する感覚であると、少なくとも私個人においては真逆であると言えるのだけど、それぞれのベクトルは「目的」が違うだけで出発点は実は同じだ。

神は人間の愚行の前では犠牲者であっても救ってくれないと十分すぎるほど解ったのだから、神の名においての行動は慎まなくてはならない。人のせいにしてはいけないなんて、誰だって分かることだ。しかし情報は溢れ返って、覆水はまさに戻すことができない。たくさんのことを知ったがゆえに距離や新しい差別が生まれるのはなぜなんだろう。社会を思うとき、信仰もなす術もないほどに、なぜこうも寂しいのか。
そんな現代、終戦65年目の夜に。
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HN:
TOBARU SHOKO
性別:
女性
職業:
Creator
自己紹介:


フリーランスのジュエリー作家から調理の世界に寄り道後、アートのクリーエーションに魅了されて現在に至る。
育児支援施設にて親と子を対象とした造詣教室「親子でアート♪」を手掛ける他、下手の横好きで書きモノも少し。
アクセサリー制作は作家の補助、
初心者対象の教室、趣味での制作、など。
ちなみに画像は家宝のPIRELLI Calendar 96 by Peter Lindberghより。
okinawa出身。

                 
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